本当にすばらしい活躍をされたのですね。
「ロシア五人組」という名称は、ロシア語の Могучая кучка (モグチャヤ・クーチカ)の翻訳である。直訳すると「強力な5人」ぐらいの意味であるが、「クーチカ」には二義的に、「集まり」「重なり」の意味もある。1867年に芸術評論家のウラディーミル・スターソフによってこのように命名され、5人の共通理念は、反西欧・反プロフェッショナリズム・反アカデミズムを標榜することと定義された。
「五人組」の発端は1856年の、バラキレフとキュイの出会いにさかのぼる。翌1857年にムソルグスキーが参加し、1861年にリムスキー=コルサコフが、1862年にボロディンが参加した。「五人組」に先立って、グリンカとダルゴムィシスキーが民族的な性格をもった音楽の創造に立ち向かい、ロシア的な題材によって歌劇を作曲していたが、「五人組」はそのような音楽を発展させることに初めて集中した作曲家であった。「五人組」はスターソフをいわば芸術顧問として、またダルゴムィシスキーを精神的長老として仰いだ。
しばしば同世代のチャイコフスキーに比肩され、西欧の模倣ではなく国民音楽を創作しているとうたわれたものの、5人の結束力は必ずしも「強力」でなく、作曲様式においても、洗練された西欧の理論や技法に熟達していたボロディンやリムスキー=コルサコフ、アマチュアリズムに依拠したキュイ、反西欧をひたむきに突き進んだムソルグスキーというように、必ずしも5人の作風に統一性があったわけではなかった。1870年代になって5人のそれぞれが独自の道を歩き始め、バラキレフが音楽界から引き籠もりがちになると、「五人組」の瓦解は防ぎようがなくなった。
チャイコフスキーがモスクワ音楽院を通じて後世に影響を与えたように、そのライバルであったリムスキー=コルサコフは、ペテルブルク音楽院や個人指導、さらには教師となった幾多の門弟を通じて、ロシアやソ連の楽壇に貢献することとなった。その恩恵や指導力にあずかった作曲家として、イッポリートフ=イワーノフ、リャードフ、アレンスキー、グラズノフ、スクリャービン、ストラヴィンスキー、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチがいる。またリムスキー=コルサコフが、ボロディンやムソルグスキーの未完成作品の校訂・補筆にたずさわっていたことから、主要なペテルブルク系の作曲家はこの2人からも影響を受けている。
引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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